学ぶ意味 [教育]
佐藤一斎は言志耋録の中で、「学は自らを知る事である」と述べている。
彼は朱子学及び陽明学の研究者であったから、学びは当然自身の研究分野であったと考えられる。
朱子学は儒教に仏教的な要素が加わり、宋学が生れたものを朱熹が四書五経に纏めたものである。
陽明学はその朱子学に実存哲学を加えたもののように解釈をしている。
共に、聖人を目指す学問であり、その聖人とは孔子を指すと考えて良いであろう。
明治に近代国家を造り、あれ程兵が強かったのは、聖人を目指した若者が国造りをしたからであろう。
その議論は、今は無く、奇跡であるとか元勲が偉かったという議論しか出てこないのは悲しい。
結果として、子供達は優しさしか教えられず、虐めに逢った時、自らを卑下するしか出来なくなっている。
ここ最近では自殺すら多く発生している。
聖人になろうという志が子供を成長させた。
しかし、現代では将来の夢とか心を持つ子供の数が圧倒的に減った。
これは、時の内閣総理大臣が憲法改正等とどうでもいい事を自らの志として掲げているからに相違ない。
国家が何を目指すべきか指示さなければ、夢や志を持つ若者は育たない。
文科省は学習指導要領等の枝葉末節を教員に押し付けるよりも、何になりたいかの議論をさせるのが先だ。
学びたくなれば自ずと学ぶのが人である。
筆者は学生に「大きな本屋さんに行きなさい。そして、目の前の棚で目に付いた本がご縁」だとよく言う。
第一冊目に読む本は、その科目にとってインデックスとなってくれる。
そのインデックスに沿って学んでいくと良い。
このブログと同じく力を入れていますので、楽しんで頂ければ幸いです
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