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合理情動行動療法の基礎を築いたアルバート・エリス [心理学]

 古代ギリシアの哲学者エピクテトスは、起源80年に「私達は出来事にでは無く、出来事に対する自分自身の見方に悩まされる」と主張した。この原理が、1955年にアルバート・エリスによって考案された合理情動行動療法(REBT)の基礎だ。これによれば、経験は如何なる特定の情動的反応をも惹き起さない。反応を惹き起すのは、個々人の信念と体系だ。

 1940年代と1950年代に精神分析家としての実践を積む中で、エリスが気付いたのは、患者の多くが自分自身とその幼年期についての洞察を得ながらも、不幸にもその症状は無くならないという事であった。それは、1つの問題が解決されると、患者が別の問題を持ち出して来るかのようであった。エリスはそこから、問題は患者が思考する仕方(詰りは認知)にあり、洞察以上にそれを変える事が必要だと思い至った。


非合理的思考

 エリスは自身の治療法を合理情動療法と名付けたが、それは長期に亘感情的問題の大半が、大抵非合理的思考に由来するという認識があったからだ。最も良くあるパターンの1つは、出来事について極端な結論を、取分けネガティブな結論を引出す傾向にあるとエリスは指摘する。例えば、非合理的に考え勝ちな人間が仕事を失ったとする。その時彼は、これは当人にとって単に不幸なのではなく、とてつもない事だと感じる。この男が自分に価値が無いと思う理由は、自分が解雇されたからであり、決してこの先代りの職を見つけられそうに無いからだ。エリスによれば、非合理的な信念は非論理的で、極端で、不利を齎し、当人の妨げとなる。それはそうした信念が不健全な情動的帰結を招くからだ。

 合理的思考は、逆の効果を生む。エリスによるなら、合理的思考は有益なものだ。困難を前にして、そこに破滅的なネガティブな結末を想定する事無く、それに耐え得る能力と寛容さとにその基礎があり、更に人間のポジティブな可能性への信頼がある。こう言ったからと言って、ネガティブな要因に眼を閉ざして、素朴でポジティブな信念だけに眼を向ければ良いと言う事ではない。合理的思考は、悲しみや罪悪感、フラストレーションと言った感情が時には理に適ったものである事は否定しない。合理的に考える人でも、仕事を失う事は有りうる。その原因が当人の責任に拠る事もあろう。だからといって、自分が無価値な人間ではない事は言うまでもない。或いは、その事で当人が滅入る事もあろう。それでも、合理的に考えれば別の仕事に就く可能性は何時でもある。合理的な思考はバランスが取れていて、何時も楽観論と様々な選択肢の余地を認めている。だからこそ、健全な情動的帰結がそこからは導かれる。

 非合理的思考についてのエリスの考えには、カレン・ホーナイの「~すべき」の抑圧と言う考え(中には、それがどうあるかとは“魔術的に”異なっているべきだという考えへの没頭)からの影響が認められる。こうした考え方と現実を和解させようともがくのは、辛く終わりの見えない葛藤だ。それに対して、合理的思考は、受入れに主眼を置く。時には私達が望まない事柄も起るが、それも人生の一部なのだと言うバランス感覚を失わない。


条件付けられた反応

 私達は、人々や出来事に対して一定の応答をする為、それらが殆ど自動的な反応のようにさえ思えてくる。私達の反応は、出来事そのものと分ち難くリンクしてゆく。だが、エリスの目指すのは、ある出来事がある感情にどう影響を齎すかを認識しようとする事だ。出来事が直接にその感情の原因になる訳では無い。私達の感情的反応は、生じた事柄に対して私達が認める意味に左右され、それはそれで更に、合理的、もしくは非合理的思考に支配される。

 その名称が示すように、合理的情動行動療法は、情動反応(認知過程)と行動の双方を問題にする。両者を繋ぐものは、2方向へ進展する。行動を変える事で考え方を変える事も可能だし、考え方を変える事で行動を変える事も可能だ。エリスによるなら、自分の考え方を変えるやり方には、非合理的信念をそれと認め、更には合理的な思考でそれらに立ち向かう事で、それに異議をさしはさめるようになる可能性が含まれる。


信念への挑戦

 REBTを受けている間、個々人は自分や人生の中での自身の立場について最重要と感じられる幾つもの信念を持っていないか考えるよう求められる。実は、そうした信念が非合理的な応答に影響を及ぼしている。この過程は、「論争」として知られる。例えば、ある人々は、「自分は、知る限りで唯一の本当に当てにできる人間だ」とか「私はこの世界で常に1人ボッチで居る定めにある」と言った信念を抱いている。治療の中で、各人はその個人史を探究して、こうした信念体系を合理化している当のものを見出すよう促される。何回もの破綻を経験した人は、「ひとりぼっちでいる」事が自分の運命だと、或は自分達は何故か「愛されるに値しない」存在だと言う幻滅に憑りつかれているかも知れない。REBTは人々を励まして、喪失や孤独の苦しみを受入れ、喪失を齎す諸要因を論理的に評価できるようになる助けをする。だが、1つか2つの実例を持って何か常に起きると見做し、だから幸福にはなれないと言う信念を自明化する態度は、断固として拒絶される。

 非合理的思考に内在する困難の1つに、それ自体を永遠化しようとする傾向がある。例えば「これまでに1度も良い事が自分には無かった」と考える場合、良い事が起る事を探そうと言う気にさせてくれる要素は、殆ど無いか皆無に等しい。非合理的思考は、良い事が起る可能性を、余り在りそうも無い事と見做す。その結果、そんな可能性を追及しようと言う気持ち自体が挫かれる。多くの人々は、自分を永遠化してくれる信念:「そう私は何度も頑張った。だから、良い事なんて起るはずが無いと分っているんだ」を表に出す。これによって、この人々の信念体系は合理化され強化される。

 非合理的思考は、「黒か白」だ。それは、個人が可能的経験の全幅を認識する妨げとなる。もし誤った信念体系が状況を常にネガティブに解釈に私達を導くとしたら、その結果別のポジティブな経験の可能性が損なわれる。「百聞は一見に如かず」と屡々思われがちだが、自分の信じているものが自分の見ている物だというのが現実だ。


構成主義理論

 REBTは、私達の好みが躾や文化に影響されるとしても、私達は自身の信念と現実とを自ら構築するのだと考える点で、構成主義だ。エリスに言わせれば、療法として見る限り、それは人々の固定的で絶対化された思想や感情、行為を露にしようと務めそれによって人々がどのようにして「自分を失望させる」選択を行っているかを実感できる助けになろうとする。それは健全な道筋をイメージし、それを選び、新たなずっと得る所の大きい信念を内面化し習慣化するにはどうすればいいのかを示唆する。その中で、一度患者が決断に際して自分に気付き、自分の意志で(それも屡々異なった風に)選択すると言う考えを自分のものにすれば、療法家は廃されるべき存在と化してゆく。その時、療法家は、最早患者には必要なくなる。


行動的療法

 アルバート・エリスの理論は、時間を掛けるのを事とする精神分析の方法論に異議を差し挟み、今日では良く知られている認知行動療法の最初の型を作り上げた。エリス自身が行動的でどんどん指示を与える療法家であり、長期に亘って受け身の姿勢に徹する精神分析に代えて、作業と力とを直に患者の手に返した。この手法は、カール・ロジャースのそれを先取りするものであった。又エリスは、理論化だけでは不十分だと言う点を強調した。「行動に次ぐ行動でそれを実証しなければならない」とエリスは語っていた。REBTは、1970年代と80年代を通じて最も知られた療法の1つになり、アーロン・ベックの業績に多大な影響を与えた。ベックはエリスを評して、「開拓者にして革命的療法家であり、理論家であると同時に教育者でもあった」と語った。

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