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「良い生活」を誘うカール・ロジャースの提案 [心理学]

19世紀から20世紀初頭にかけて、心理学的治療の主要アプローチは、精神疾患は治療される必要のある特定の病理的状態だという考えに基づいていた。例えば、通常の精神分析理論は、自身の精神的健康に問題を抱えている人を「神経症的」と見做した。精神疾患は、ネガティブな光の下で見られ、当時の大半の心理学的実践も理論も、精神疾患の根底に潜む原因の組織的な説明を含む厳密な定義と、それを治療する為の特定の方法とを提示していた。


アメリカの心理学者カール・ロジャースは、心的健康に関する遥かに困難な道程を辿って、その過程で、従来の心理療法の手段を拡張した。ロジャースの考えでは、当時の哲学は余りに画一的化し、硬直化した為、人間の経験のような力動的なものを巧く説明できなかった。そもそも人間性とは、既定のカテゴリーに適合させるには余に多様なものだ。


こころの健康を実現する


ロジャースの考えでは、精神の健康を特定の固定的な状態と見做すのは馬鹿げている。精神の健全な状態とは、一連の状態を経て最後に突如として達成されるようなものではない。ましてや、精神分析学者達が強調するように、生体の欲望や衝動が充足される事で個人の神経症的な緊張状態が減った結果として健康が得られるというものでもない。のみならず、行動主義者達の推奨するように、内的な不浸透性の恒常性乃至バランスを発展させ維持するように設えられたプログラムに従ったり、世界の外的カオスの自己への影響を切り下げる事で培われる訳でもない。


ロジャースは、欠損状態にある人がその状態から回復するには、治療される必要があるとは考えず、人間の経験及び私達の精神そして環境を、それ自体生きて成長するものと見做した。ロジャースは、「有機的経験の現在進行形の過程」を問題とし、生命を現在進行形の営みと見做した。生命はあらゆる瞬間の経験の内に宿るのだ。


ロジャースにとって、健全な自己概念とは、固定的なアイデンティティではなく、諸々の可能性に開かれた流動的で絶えず変化して行く実体だ。ロジャースが受け入れるのは、無限の可能性を秘めた、真の、何も前もって定まっておらず、中空を漂っているような健全な人間的経験の定義だ。同僚の心理学者アブラハム・マズローの表現を借りるなら、人間は「適合し」「実験される」ことが決まっている道を旅する存在では無い。ロジャースに言わせれば、生きる事は、どんな種類のものであれ既成の運命に到達する事ではない。生きるとは、終点に向かう旅では無く、私達が死ぬまで何処までも成長と発見を続ける現在進行形の過程なのだ。


「良い人生」を送る


ロジャースは、「良い人生」を送ると言う表現を用いて、自分のアプローチを受入てくれた人々の示す性格や行動は、「人生の流れの中で十全な」状態にある。その為の1つの本質的な構成要素は、この瞬間にすっかり現前しつつ止まる能力だ。自己も人格も経験から作られる以上、時間毎に提示される様々な可能性についても完全に開かれた状態であり続け、経験をして自己を形作る事が最も重要だ。個人は絶えず変化し続ける環境の中で生きている。それでいて人々は頻繁に、それも余りにお手軽に、この流動性を否定して、その代りに事態はどうあるべきだと自分は考えるかのステレオタイプを作り上げようとする。このような存在様態は、ロジャースの考えている、存在の本性からして必要とされる、自己の流動性で浮動的、かつ絶えず変化しながら組織化する真逆にある。


世界がどうなっていて、又どうあるべきか、そしてそこでの自分の役割は何かと言った事についての私達の予断が、私達の世界に限界を画し、現在に止まり経験に開かれる私達の能力を切り縮めてしまう。良い人生を送り、経験に開かれた侭である為には、自分が囚われていてはまり込んでいると感じてしまう事の無いような状態をキープする必要があるとロジャースは言う。ロジャースの考えでは、目標とされるべきは、自身の経験を予め思い描いている自己についての感覚に適合させようとするのではなく、経験をして私達の人格の形成の為の出発点たらしめる事だ。もし私達が、事象が実際にどうなっているかを受入れようとせず、事象がどうあるべきかについて自説に固執するなら、私達は自分達の欲求を、実際に利用可能なものと比べて「釣り合わない」、或はうまくそぐわないものと見做してしまうだろう。


世界が「私達の望むように」なっておらず、さりとて私達が自分の考えを変える事も出来ないなら、防衛機制と言う形で葛藤が生じる。ロジャースに言わせれば防衛機制とは、不快な刺激が意識に登るのを妨げるべく、無為識裡に何らかの戦略を講じようとする傾向だ。私達は実際に生じている事を否定する(遮断する)か歪める(再解釈する)かする。これはその本質において、自分が予め思い描いていた考えを固辞すべく、現実を受入れるのを無視すべく、現実を受け入れるのを拒絶する態度だ。そうする中で、私達は自分達の内なる反応や感情・観念の全幅を自らに禁じて、様々な広範な可能性を、誤らないし不適切なものとして退けてしまう。現実が私達の予断とぶつかる場合に生じてくる防衛的な感情と思想には、経験についての制約された人為的な解釈が映し出されている。「有機的経験の現在進行形の過程」とロジャースが呼ぶものに本当に参入するには、防衛的な態度を完全に捨て去って、新しい経験に全面的に開かれている必要がある。


感情の全幅


ロジャースに言わせれば、自分の感情の全幅に耳を傾けることで、私達は生活のあらゆる部分に亘って、一層深く豊かな経験を持つ事が可能となる。私達は、感情は選択的に遮断できる。取分け嬉しくない不快な感情は弱める事ができると思いがちだ。だか、感情のあるものを抑え込むと、不可避的に感情全体のヴォリュームのトーンが下がる。その結果、自らの本性の全体への通路が阻まれてしまう。他方で、以前にはネガティブなに思えた物も含めて自分の感情とずっと巧く折合えるようになったなら、ポジティブな感情の流れがそれだけ強く表れてくる。それはまるで、自分が苦痛を感じると認める事で、嬉しい時の経験までもが益々強くなるようなものだ。


起る事の一切に常に聞かれている事で、私達は自身の能力を考えている事で、私達は自身の能力を全面的に働かせられるようになり、自分の経験した事から最大の満足を得られるようになる。もはや、自分の自我の一部を遮断して、防衛機制を働かせる必要はなくなる。そうなれば、あらゆる事柄が十全に経験できるようになる。一度予断と言う心の中の惰性的習慣を脱する事が出来れば、私達はどこまでも上昇してゆける。私達に必要なのは世界についての自らの観念にあうように経験を組織化するのではなく、「経験の内に構造を見出す」ことだ。


この開放は、臆病者の為のものではないとロジャースは言う。そのような態度は、個人の側ではそれなりの勇気を必要とする。どんなタイプの感情でも、恐れる事は無い。ロジャースに言わせれば、私達に必要なのは認知と経験の全き流れを認める事だけだ。一層の幅を以て経験の過程に真に接近できるようになれば、私達の誰もが真の自己へと通じる道を益々見つけられるようになる。これが、私達がそうなるようロジャースによって推奨される、全面的な活動状態にある個人の姿だ。私達は常に成長している。ロジャースに言わせれば、どの方向にでも進んでゆける自由がある時に人々が選択する方向は、大抵は一番適した方向となる。実際それが一番似つかわしい。


 


条件付けられない受入


心理療法の分野における先人達の見解とは対象的に、ロジャースの考えでは、人々は本質的には健全な存在であり、精神的にも感情的にも良好な状態にある。それが、人間本性から生じる当然の進展だ。こうした信念が、患者を完全にポジティブな光の基で、絶対かつ無条件的に受入られるべき存在と見做すそのアプローチの基礎を為している。ロジャースが求めるのは、自分の患者が自分に対しても他者に対しても、同じように振舞う術を身に着けている事だ。こうした見方は、万人の潜在能力をそれとして認め、共感する事で可能となるが、「無条件的にポジティブな眼差し」と言う良く知られるようになった表現で呼ばれた。ロジャースの考えでは、彼の患者のみならず、周囲の人々や環境も含めて全ての人が、このように見られる事を必要としている。


自己と他者双方の無条件的な受入は不可欠なステップで、これが欠けると私達は経験への開かれた状態を失う。ロジャースによれば、私達の多くが承知乃至受入を得る前に出くわさざるを得ない、とても強力で耳障りで特殊な条件を抱えている。更に私達は、自分の価値及び他人への歌う心の土台を、あるが侭の人々を受入れる事では無く、達成や外見に置いている。


両親は軽率にも、子供が愛情を受けるに値するのは、あくまでそれなりの要求に子供が応えた場合だけだと教え、子供達が野菜を残さず食べ、物理で満点を取った時には褒賞を与えるが、愛して貰えないとしたらその責任は当人にあるのだとあからさまに示す事がある。ロジャースはこうした要求を、「価値の条件」と呼んだ。その背景には、こちらの勝手な要求に人や物を合せる事を求めたがる私達の傾向は、逆に全員に手痛いしっぺ返しを食らわせるものだというロジャースの考え方がある。


確かに達成は尊重されるべきだが、それは人間の基本的欲求にして、行動や行為を通して「獲得される」必要すらない受入とは別の事柄であり、そればかりか副次的なものでさえある。ロジャースの考えでは、個人の価値とは元々只実存しているという奇跡によって認められるべきものだ。受入は決して条件付きの事柄と見なされてはならない。絶対的にポジティブな眼差しこそが、どうすれば私達全員が「良い人生」を送れるかの鍵だ。


私達が、より自分自身を受け入れられるようになれば、それだけ自分に耐えれるようにもなる。受入は、やらねば、見なきゃ、ものにしなければと言ったプレッシャー(これらは、そうした活動によって自分自身の価値が決まると言う誤った見解をもって生きている時に嵩を増す)を緩和してくれる。そうなれば、ロジャースが自身のセミナーの記録を纏めた著作『人間論』で述べているように、誰もが誰かに対しても今進行中の仕事に取り掛かっている事に気付けるようになる。詰り、私達はみな絶えざる「生成状態」にある。皮肉な事に、私達は自分を受入れられればられる程、不健全なプレッシャーや常に付きまとう批判は減り、桁違いに生産的になってゆける。


自分を信頼する


ロジャースの考え方では、「良い人生」を送るとは、自分を信頼する術を学ぶ事だ。開かれた在り方へ向かっている時、その人は自然と自身とその衝動を信頼する能力と言う点で進歩しており、その結果何の不安も抱く事も無く、自分の決断力に一層の信頼を寄せられるようになっているのに気付く。自分を少しも抑圧する必要がなくなれば、自分のあらゆる部分に対して自然に耳を傾けられるようになる。その結果、多様な見通しや感情を我が物に出来るようになり、自分が行う選択を一層適切に評価できるようになる。そうなれば、その評価によって、自分の可能性をより良い形で自覚できるようになる。そうなれば、その評価によって、自分の可能性をより良い形で自覚できるようになる。こうして、真の自己が何処に向かいたがっているのかが以前よりもはっきりと分るようになり、自分の欲求に見合った選択を行えるようになる。最早、自分がすべきだと考える内容や、社会や両親からそれがお前の望みなんだと押付けられるかもしれないものに振り回される事もなくなり、ずっと楽な気持ちで生きて行けるようになり、自分が本当は何を望んでいるのかに気付けるようになる。こうして、自分を信頼できるようになる訳だが、ロジャースの言葉を借りるなら、それは「自分が無謬だからでは無く、自身の行為の帰結を逐一そのままでは受け入れる事ができ、満足のいく結果とはならなかった場合には、それを正す事が出来るようになっているからだ」。


「良い人生」を送る中で、私達は、自分の人生をちゃんと我が物にしていると言う感覚、そして自分のする一切に対して責任を負う感覚をも持つ。これは、ロジャースの哲学のもう一つの基調音であり、実存的観点に由来している。私達が何を考え行うとも、その選択の責任は自分にある。私達が本当に自分が望み必要としている事柄を分っていて、それを実現する為の道程を辿っている場合には、何を恨む気持ちも生まれない。それと同時に、より責任のある事と自分の人生に本当に自分をそれ注ぎ込もうという傾向とがどんどん強まる。医学を嫌っているくせにその仕事に従事して医者が居ると言う話を聞くのは珍しくない。そういう彼らは、両親が、医者になると社会や親から敬意と賞賛が得られると言ったから、医者になったのだ。これと対照的に大学を中退或は落第する学生の割合が殆ど援助を受けず授業料を納めている学生の間では極めて少ない。


私達が自らの欲望に影響を齎すやり方、そして自分をどう規定しているかは、時に極めて錯綜している。自分ではない誰かの願望の為に行動する時には、憤慨の念が奥底に沈殿することもある。もし自分の行動に対する外部からの影響が皆無なら、私達はそれだけ本来的かつ堅固な形で、自身の運命をコントロールできると実感する事だろうし、その結果にもずっと満足できるようになる。


人間中心のアプローチ


ロジャースの哲学は、彼が1950年代にアブラハム・マズロー及びロロ・メイらと共に創設した人間性心理学と呼ばれるアプローチの礎石となった。それは、人間を基本的に健全で、その可能性を成長させ実現させる力さを持った存在としている。このアプローチは、当時の心理療法における主流のスタイルであった精神分析及び行動主義とは、好対照的であった。後者は何れも個人の病理と、それをどう治すかに焦点を当てていた。


当初ロジャースは、自分の手法を「クライエント中心主義」と呼んでいたが、やがてそれを「人間中心的」と呼び変えた。以降、それは臨床の現場のみならず、教育、子育て、ビジネスその他の領域に対する多大な影響を与えている。ロジャースが「非指示的療法」と呼ぶ人間中心的療法においては、療法家は司会者の役割を演じて、患者が自分で答えを見出す手助けをする。そこには、自分を一番解っているのは患者自身だという信念がある。人間中心的療法において、患者は自分の問題を、そして治療がどのような方向に向かうべきかを自分で決める。例えば患者が、自分の幼児期に話が及ぶのを避けて、今自分が仕事上で直面している問題に話を集中させようとする事がある。その場合療法家は、患者が実際にはどのような役割を引受けたいと思っているのかを自分で発見できるように手助けする。ロジャースはこの過程を、精神分析で言われるように「再構成的」とは呼ばず「支援的」と呼ぶ。とはいえ、患者は支援をあてにして療法家の下にすがりにくるべきでは無い。患者に必要なのは、どうすれば自分を理解し信頼できるようになり、それによって何物にも頼らずに「良い人生」を送れるようになるかを自ら学ぶ事だ。


ロジャースの遺産


ロジャースは20世紀で最も影響力を持った心理療法家の1人だ。彼が新しく齎したクライエント中心的で非指示的な療法は、心理療法の発見過程での転回点を示している。ロジャースの見解は、個人間の自由なコミュニケーションを支持する1960年代のエンカウンター「感受性訓練」グループの哲学の支えともなった。専門的なカウンセリングが教育や社会訓練といった領域へ広がっていったのも、ロジャースに負う所が大きいし、一層効果的なコミュニケーションを通して国際紛争を解決しようとする試みに関しても、ロジャースは先駆的存在となった。


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